昭和40年06月19日 朝の御理解



 十日も前だったでしょうか。福岡の古屋さんのお導きで、ある方がお参りしてみえました。高芝さんたち夫婦福岡へ行かれて、帰りにし車に便乗して見えたんです。それにもうその方にとっては、もう大変なその難儀な問題なんです。
 と言うのは、ご長男の結婚の問題でした。私も夕方でしたからあちらへ下がっとりましたから、そのお取次ぎさせて頂いておりましたら、ちょうどあちらへ見えまして、お話聞かせて頂きますと、成程まぁこの人にとっては、問題だろう難儀だろうと、こう思う様な事で御座います。と言うのは、相当手広く仕事もなさっておられるし、それからご夫婦ともそうとう高い教養をもっておられる方らしい。息子さんも大学を出て、現在おかげを頂いておられる。ところがそのご両親がですね、もういよいよこれではいかんという、その相手の方と、どうでもこうでも結婚すると言う訳なんです。もうその為にもう大変な一家中が、その難儀を感じておられる。もうそしてその人よりも、もっとそのよい候補者をですね、選んではお見合いをさせるけども、やっぱりどうでもこうでも、あの人と一緒にならなきゃでけん(笑い)といわば、いう訳なんです。
 そこで私はあの、お取り次をさせて頂いてです、結局あのご本人が、心に御繰り合わせ頂いて、又ご神意を頂いても、私はだからその前に申しました。
 けれどもあなた方が、そう言うておられるけども、身分とかその人のタイプとか又は様々な問題、人間の見た目と神様が見た、ご覧になる目は又違うのだから。ご神意であればいいじゃないですか。本人が幸せになるそして、ご両親もまたおかげを頂かれると、言った様な事だったら、まぁご神意を伺うて見らん訳にはいかんけれども、けれども段々ここでお話しをあの聞かせて頂いておりますと、こう云う事を言われるんです。
 「私しは、始めてここに、お引き寄せ頂いた時にですね、とにかくここの雰囲気の中に、私はあそこの障子の開かっとる、私はそこに居ったんです、チラッと私が見えた時にですね、なにか、親元に帰ったと言う感じがしたっち言うんです、そして今度は、先生の話しを段々聞かせて頂いておるうちにです、もうこの先生の言われる事なら、そう腹を決め様とも思うとる。」
 それからその御理解であった、だからこりゃもう私共では、解らん事ですから、神様がそう言う様に、これが本人達の幸せだけではなくて、その方の家の上にもそれが良いと言う事であればですね、それは又私から主人にもそう話さして頂いてから、まぁおかげを頂きたい。中々どうも話の端ばしにです、金光教的なんですよね、例えばなら親先生任せにならせて頂こうと言う、腹が決まったとこにきのとこなんかは、中々。
 ところがその後から、又あのお伺いした事に対しても、まぁちょっと話しが余談になりますけれども、まぁその、ある教会にやっぱお参りしておられるです、福岡で。ところがそのもう全然、ただ中には信心しておると言うだけで、神様のおかげで、こう言うおかげを頂けるとか、あぁと言った様なですね。事はもう感じてない程に、言わば枯れ果てた様な信心なんです。
 信心しておるけども、それがなにかこう下からその、甦って来たと言った様な感じなんですねここで、大体御理解をさせて頂いて相手の腹も決まらせて貰いおかげを頂いて、まぁ相手の方の心の中にも一つの潤いが、ゆとりがこう出来られたと言った様な感じだったんです。それから私改めてご神意、伺わせて頂いたんですけれども。ご神意を頂いてもやっぱり本人の為にも良くなければ、家庭の為にも良くないという訳です。
 やっぱ私共、見た目が間違いなかった。先生どうしたなら良かろうかと言う話しだった。そこで、神様にお願いさせて頂いてからね、本人の心の上に、御繰り合わせを頂く、また相手の方達の心の上にも、御繰り合わせ頂いて。御繰り合わせを頂いて、まぁその人を断急される、思い切られるおかげを頂いて、次の御繰り合わせを願う外、そん位の事でよかでしょうか(笑)それも、お願いなさらんといかんでじょうもん。と言うて帰られたんですけれども。
 昨日古屋さんからそのお届けがあったんですね、「先生もう本当に神様のおかげちゃこんなもんだらうか」と言うてから、昨日お礼にあちらもでて見えて「改まってまたお礼に出るから」と言うてそのお届けがあったと言う事なんです。と言うのはですね、もう思い掛けない所から、お宅の息子さん適齢期でありますから、そのどうじゃろうかと言うて、その見に来いと、いままではその幾ら見たって、ぼくは同じ事といよった人がですたい、やっぱりそんなら、見て見ろうと言う事になった。
 ところがです、帰って来てからお母さんどうでもこうでも、あの人ば貰うてくれちいう(笑い)そしてなら今迄のあの人は、そりゃどうするかと、僕が今から断りに行くち言うてから、本人が断りに行った(笑)ね。と言う様な、まだそれから先の詳しい事は聞いておりませんけどもです。恐らくは相手のいわゆる、断られた方の、その方もおかげを頂く道を開けると私は思うです、
 「神様はこれだけにはおかげをやってこれにはやらん」と言った様な片手落ちの、おかげを下さる筈は、ないですもんね。昨日私こんなお夢を頂いた、青年会長の宮崎友足さんて方が、そこおりますよね、その宮崎友足さんのお家で、椛目のまぁ熱心な御信者さん方が、それこそちょうど、十三日会が開かれておる様に、あぁいうメンバーの方達がです。お呼ばれしているとこなんです。
 そして御膳の付いた前で、お食事やらお酒やら頂いておる所なんです。ところがこっちの勝手の方でですね、やっぱりそれも熱心な信者さん方ですけども、その方がやっぱりご飯を頂いておる。「ありゃどうしてあなたこげんな所で頂きよるとの」と私が言うたら、「私はここに商売に参りました」とこう言う。こりゃ私も酒屋をしている時分でもそうでしたですね、例えばご祝儀なんか御座います時に、お酒の注文受けますでしょ。そすとそこに商いに参ります、とって貰う。
 そすとあのまぁ、お燗つけやらお手伝いさせて頂きます。ね。あの昔はご祝儀とか棟上とかと言う時には、必ず四斗樽取って貰ったもんです。ですから素人じゃ中々引けませんからお手伝いさせて貰うです。そすと結局なら、私共にでもご飯を頂いていけ、ご飯を食べて行けというて。お客さんと同じおご馳走でですたい、そりゃ勿論客席ではありませんけれども、勝手の方ででも、ご飯をお世話になる訳なんですけども。
 そう言う様な事で、私はここに商売に来ておった。さっち食べて行けていいなさるもんですけん「ここでお世話になりよります」とこお言う。あぁそうじゃったのと、他の方達はね、いわゆる招待を受けてからままになっておると言う事です。この人は商売に来てから、ままになっておると言う事なんです。どんな風に感じられます。これはある方がです、今度の椛目の御造営の為に、おかげを頂きたいと言う念願をもっておる。
 だからお商売をさせて頂いてから、これこれ儲かったら儲かっただけ、お供えすると言う人ですこの人は。これだったらあんた、なぁにも自分の身を削る、身を削るとか心を削る事はないじゃないですかね。どうですか、おかげ頂いたなら、お供えすると言うのです。( ? )とっても、やっぱお世話になっておるという感じでしょうが。するとそれこそ身を削り心を削り、例えば夕べなんかでも2時まででした。
 熱心にその事色々な、討議が御座いましたのが。本当に言うなら、会議から会議、もう様々なその角度からです、どうすればスムーズな、おかげが頂けるかと、どお言うおかげが頂けるかと言う事に、焦点を置いての、様々な検討なんだ、私はタッチしませんから知りませんけども。そう言う事ではなかったかと、こう思うのです。お話に加われば加わる程、させて頂けば頂いおる程です、これはいよいよ、本気にならにゃ、出来るこっじゃないぞと言う事。
 私は昨日でも段々そのこれが決定という、金額が四千ニ百何十万になっとります。それでこれはちった良過ぎるけんで、三十万ならいっちょこりゃ、のかそうこりゃええ十万円のつは、ひとつ取ろうと言う風に、こう取ってからそげんなっとります。中々矢張り今度はもう、ああいう業者の方達も入ってからの事ですから、まぁ大体あれが、あぁぎりぎりの線だろうとこう思うんですけども、始めは二千五百万円のお届けだった。
 委員長からお届けがあったのは、次が二千七百万円だった。次が三千万円だった。そしてつい最近は、三千五百万とこう言う事になっとった。一足飛びに(笑い)四千二百何ぼと言う所に、そのまぁ莫大な金額になった。どんなに救助しても矢張り一千五百万円は足りんと言う事になった、そう言う話しに一生懸命タッチ致していますとです、自ずとねそう言う様な物が、生まれて来る一生懸命な物が、話しに加わるからと言う訳じゃないです、こらはもう一番初めから、この事の起こる話しが起こると同時にです。
 そう言う、色々な思いを込めて居られる方も沢山御座います。そこでんなら「どうでもいっちょおかげを頂かせて貰わんならんと。」それと同時に商売なら商売にも、お繰り合わせ頂かなんけれども、どうぞお繰り合わせを頂いたならばおかげを頂きますと言う程度の事では、本当のおかげにならんと私は思うな。そりゃようしそれはおかげになりますよ、神様がどうでもお使いなさらないかんのだからなるに致しましてもです。
 それは、ただ私がお夢に頂きました様に、招待を受けての、ままになるのではなくて、神様が喜んで下さって、招いてさる様な客ではなくて、招かざる客です言うならば、言わば金儲けに来とってから、ご飯を頂く、ままになると言う様な感じでしょうが。これも昨日或る方のお取次ぎさして頂いたんです。とてもこれは、私が考えても、そげな無理な事したって出来るもんかいと、言う様な事。
 ところが実に(?)のないそのものが純粋なのですね。どうでもひとつおかげを頂きたいとこう言う、やっぱり御造営の事なんです。そして私の御心眼にですね、蓮の畑ですね。蓮根堀ですよ、蓮畑にですね、花は咲いてませんけれども、葉がずっとこうしこっとる所を頂く、その蓮の葉の上にです。それこそ水晶の様なですねあれは、朝露が芋の葉なんかに置いとるですねよく、ああ言う様に、蓮の葉の上に水晶の様な、その露と言うでしょうかね、水と言うでしょうか、そのもう何とも言えん雰囲気でですね。
 その蓮の葉の上にコロコロとこう、水晶の玉の様な水玉がですね。動いているとこを頂くんです。そしてですね、コロコロとこうちょっと蓮の葉が傾いたと思ったらそれが堀の中に落ちた所を頂いた。それが私によぉく水晶の玉の様に中にそれが沈んで行く様な感じなんです。その上が。ね。、そしてから私御心眼にその事を頂かせて頂いてですね、水晶の玉がです、すぅとその根のとこまで入った所を頂いたんです。
 「はぁこれは、神様蓮根くうて下さるな。」と私思うたです。その純粋なです、純粋な例えばあんたが( ? )こっちゃないと言うこと、けれども、どうでもおかげを頂きたいち、それは止むにやまれないと云うこと。私はもう出来んと、初めから決めると云うことじゃないと言うこと、だれが見ても聞いても、出来る筈じゃない人がです。それでも純粋な祈りをもってです。
 修行させて頂いてです。どうでもおかげを頂きたい、と言う願いをなさったら、人間的に私は思うたらそげな無理はしなさんなと言うごたるけれどもです。神様はそう言う純粋な願いならばです、それだけの力もなからなければ信心もでけていないのだけれども、神様が蓮根くうて下さる様にしておかげを下さるんだと、私はそう感じたはあお願いしますよ、と言うて私そのお取次ぎさせて頂いた命に係る事。医者も見離した。例えばそう言う病人がおると致しましょうか。
 いや医者にかかる前に、お願いしたかと言わせましょうか。そこで神様はその人の決心と言うか度胸を促された。所がやっぱり医者は医者におかげを頂いて、そしてどうぞ神様からおかげを頂かせて頂きたいけども、それだけの度胸でけなかったと致しますか、それが例えばよし命に係る様な事でもです。神様はそこんの所を、甘く見られないのです。それ命に係る様な事なんです、いうならば。
 けどももうぎりぎり決心ぎりぎり度胸でなかなければおかげを受けられん事もございます。日頃皆さんも信心の稽古させて頂いてですたい。そう言う時にです、ままよと。親先生ままよで頂くから、ままよと言う心になってです。お縋りさせて頂く、そこにまぁ全快のおかげを頂いただけではない。十二分の徳を受け様と思えばと仰るようにその、それを境にお徳を受けると言う人もあります。おかげだけじゃないです。
 それを一つです、命の事だけではない、体の事だけではない、いうならここの神様がです。たった一回ここに参って来たら例えば古屋さんのそのお導きの夫人です。人の心では自由自在にどうにも出来ない問題が、十日間あまりの間ですね丁度、思い以上のおかげになって来て。しかも本人は気に入りゃどうでもこうでも、お母さんあれを貰うてくれ。と言う様なおかげに進展して来ておる、そう言う働きをです。
 どうする事もでけれる、神様と御縁を頂いていると言う事。そこで例えばまぁ椛目の全体の方がうって一丸になっての御造営御造営と言う事に焦点を置いての現在信心の時でありますから。おかげ頂いたならば、と言った様な物ではなく、此の際身を削らなければ何時削るか。おかげは(?)じゃない、あってもなくってもこれだけは、と腹決めて掛れと言う事。そこに私は成就と言うおかげだけではなくてです。
 人徳を受ける様な信心がです。お徳が受けられる所のチャンスがです、またおか、そうおかげを頂かせて貰えれる、いよいよ神の確認が出来るおかげともなって来るというふうに私は感じるのです。ま、あれこれと、二、三の例をもってからお話させて頂いたですけども、その中から皆さんが、その中から、この例え話しを、このお夢の話しを、このおかげ話を、何をどういう事を神様が分かれ、どう云う事を解っくれよと言うておいでられるかというところを、一つ解らなけねばならんと、いよいよ私は思うですね。
(終わり)